(04/01)
4月1日 木曜日
フワーギャラリー(これまで間違ってヘワードギャラリーと記述していたが、正しくはフワー-Huar-ギャラリー)近くでイラクの民族音楽を練習しているスタジオがあると聞いて行ってみたのだが、あいにく休みであった。バグダッド滞在も今日で最後なので、せっかくだと思いフワーギャラリーに挨拶に行く。カッシムさんに先日自分が購入したオウドを見せると、どうもムハンマド・ファーデルの贋物だったことがわかった。価格を言ったら納得していたので、まあ予算もなかったし練習用だと思い割り切ることにした。すると目の前に座っていた男性がおもむろに立派なオウドを取り出して弾き始めた。さすがに音色が違う。彼はジャマル・カーミル-Jamal
Kamil-さんと言って、イラク人なら誰もが知っている有名な俳優であった。オウドやギターも巧みに弾きこなすので、いろいろリクエストして弾いてもらっていると、後から画家のハニさんも加わり、皆でイラクの歌を口ずさみ始めて盛り上がってきた。他にも一流のオウドプレイヤーが次々と登場して演奏をはじめる。私も日本の歌を紹介し、気が付くとギャラリーの庭はすっかり音楽交流の場と化していた。さすがにフワー(対話)ギャラリーである。
昨年の首都陥落直後、HUMAN SHIELDとしての最後の仕事として、地上戦の犠牲となった民間人の遺体の回収を手伝ったドーラのアルマハディー地区のモスク周辺を訪れる。あれから一年、大切な家族を亡くしてしまった人々は今どういう思いでいるのだろうと思って訪れたのだが、早速当時遺体回収を手伝った人が現れて、一人のお婆さんを連れてきてくれた。オム・ファラーさん(65〜70歳。正確な年齢は本人もよくわからない)はあの時の地上戦で大切な息子を亡くしてしまったと、けたたましく声を荒げて話し始めた。民間人として巻き添えとなり亡くなった息子さんは五人の孫と姉妹、そして他にも親族を養う稼ぎ頭だったという。怒りで表情を歪ませながら「ブッシュが息子を殺した」と声を震わせ、「サダムはテロリストのブッシュを呼んだ。今どちらが現れても心臓を引き千切ってやりたい」と、やり場のない思いが堰を切ったように話を続ける。その声は、当時我々に遺体回収の許可を取るために米兵と交渉してくれと泣きながら懇願してきた遺族の声の記憶と、幾重にも交差して突き刺さってくる。瞳の奥に深き悲しみの色を湛え、「もう全ては神に祈るしかないんだよ。神だけが助けてくれる」と語る彼女を前にして、私はその思いをただ受け止めるだけで精一杯であった。
こうした声は時と共に闇に葬り去られていくが、地下水脈の中で反響を繰り返し決して途絶えることはない。当たり前のことではあるが、戦争とは即ち人が死ぬということ。そしてそこではかけがえのない大切な人を失った人々が、その悲しみを抱えて生きているということ。そこに自分がいるということはありえないという無意識の境界線を張り巡らせ、洪水のように溢れかえる情報に翻弄されながら、想像力の射程範囲を削ぎ落とされていく今日の社会の中で、我々が戦争について語る言葉のほとんどは、この事実の重さを持った言葉を前にすればどれも気化を免れないのかもしれない。
やがてまた見覚えのある顔が。あの時担架で遺体を運び出していた男性が現れた。Mさん40歳。イランイラク戦争の時も民間人の救急隊員として活躍した彼は、あの後1ヵ月半でおよそ120体の遺体を回収したことで有名になり、いまではLiberal
Democratic Movement という政党の一員になっている。
再会を喜びあった後、Mさんは当時遺体が散乱していた高架線の下に行き、我々が回収を手伝った日、4月10日前後の状況を話してくれた。あの時遺族から米兵がイラク人の立ち入りを禁止していて遺体を回収できないので交渉してほしいと頼まれたのだが、やはり我々が行く前日の4月9日にはMさんの友人Mさんが現場に行こうとして米兵に撃たれて殺されている。我々が米兵に交渉して許可を得て、10体ほど遺体を回収したのが最初だったのだが、その翌日から約5日間は再びイラク人の立ち入りが禁止されてしまったということだ。その間米兵は腐臭を放つ遺体にブルドーザーで周囲のごみと土をかけて対処したらしく、立ち入りの許可が出てから掘り起こしたところ、60体ほどの遺体が出てきたという。
イラク人ですら、こうした現場を見ていない人がたくさんいる。そして「あの戦争はサダムを倒すためには仕方なかった」というイラク人で、あの戦争で家族を殺されている人には会ったことがない。
夕方一度ハニさんの家に寄り、俳優のジャマルさんが監督を務める演劇の練習を観に行く。古びた劇場であるが、皆真剣に練習に励んでいた。イラクの未来について楽観的な夫と悲観的な妻の喜劇など、獲得したばかりの表現の自由を駆使した政治的表現を盛り込んだものが多い。占領下の混沌の中でも、自分たちで新しい未来を創造しようという熱意が漲っていた