(03/17)
3月17日 水曜日
朝、京都から来た大学生と日本語がとても上手な韓国人の旅行者が私を訪ねてきた。学生のIさんは同世代の女性と話したいというのだが、明日帰ってしまうというというので今日一日しかない。これも大切な文化交流の一環なので、うまくいくかわからないが大学にも行ってみようということになり、今日一日のPEACE
ONの活動に同行してもらうことになった。
午前中にアルヌーア盲学校に昨日購入した医薬品、血圧測定器、寄宿舎用の食料を届けに行った後、昼過ぎにはバグダッド大学へ。事前許可なしでは難しいかなとは思っていたが、うまく事情を説明したらすんなりキャンパスに入ることができた。街路樹の下では木漏れ日がゆれ、道に沿った水路の脇には黄色い花が一面に咲いている。市内の喧騒から離れたキャンパス内はきれいに区画整備されていて、まるでオアシスのようだった。割とお洒落な格好をした学生たちが連れ立って歩いていく様子を見ていると、とても自由な風を感じる。
そんな中、生物学、遺伝子工学、物理学を専攻する学生数人と話すことができた。Iさんはイラクの若者は普段どんな生活をしているのだろうと聞いてみたのだが、皆さんとにかく勉強が大好きなようだ。もちろん家ではTVも観るし、アメリカ映画も大好きだという。しかし何よりも自分が専攻している学問を愛していて、出来ればアメリカや日本の大学で勉強したいとも言っていた。遺伝子工学を専攻しているムハンマドさんは、「どうしたら日本の大学に行けるだろうか。私たちにチャンスはあるだろうか。」と真剣な眼差しで訴えてきた。また、皆さん同じ学問を専攻している日本の学生とEメールを交換したがっているようだった。サダム政権が崩壊したとはいえ、まだまだ海外の学生との交流の機会は少ないのが現実だ。ちなみに戦前は1割ほどいたという主に中東諸国からの外国人留学生も、今ではほとんどいないという。
その後、通訳の仕事をしている友人のパレスチナ人Aさんの紹介でアルバラディアート地区-Al Baladiat-にあるパレスチナ難民キャンプ、ハイファクラブを訪れる。戦前は政府からの援助があったパレスチナ人も戦後は全く見放されてしまい、今ではUNHCR経由の援助だけが頼りだという。幸い最近は少しずつテントからアパートに移ることが出来ていて、一時は300家族がテント暮らしをしていたそうだが、今では60家族にまで減っているそうである。ただし移ったあと保障されている期間は1年間で、そのあとはどうなるか全くわからないともいっていた。UNHCRも昨年の国連事務所爆破事件以降はスタッフを引き上げてしまっているので、キャンプ内の環境は悪化する一方だと嘆いていた。テント暮らしを続けているAさんの友人Aさんは心臓を患っているのだが、お金がないので満足な治療が受けられない状況が続いているという。とにかく仕事がないようだ。もちろんイラク人にも仕事がないのだが、パレスチナ人は後回しにされるのでさらに仕事がないのだ。
イラク全体では約3万5千人、ここアルバラディアート地区だけでも7千人ほどのパレスチナ人が住んでいる。彼らも復興に沸き踊る饗宴の陰で闇に追いやられている人々である。2人ともここイラクで生まれていて、パレスチナには行ったことがない。彼らは仮にパスポートは持っていても国外に出ることすら難しいのだ。二人とも、夢は故郷パレスチナの地を踏むことだと言っていた。
夜、インターネットカフェでメールをチェックしていると、一瞬の停電の後ドウンという鈍い音がした。5分もするとテレビで現場の様子が映し出されている。やはりバグダッドで爆破事件。距離にすると2キロも離れていないところにあるジュエル・レバノンという小さなホテルだったらしい。