「尾崎翠フォーラム」なるものが鳥取にて毎年あるのを羨ましく思っていたのですが、とうとう東京でも開催されるとのことで、行ってまいりました。
「尾崎翠の新世紀 第七官界への招待」ウェブサイト
→ http://osakimidori.info/
1日目は活動弁士による朗読や芥川賞作家川上未映子さんの講演などあったようですが、わたしは2日目の映画『こほろぎ嬢』(浜野佐知監督)上映、池内紀さんの講演、パネルディスカッション(吉野朔実さん、高原英理さん、木村紅美さん)のみ参加。

*会場の日本近代文学館。
尾崎翠は1896年生まれの作家。矢川澄子、野溝七生子、森茉莉らとともに少女文学というくくりで語られることもあります。
その悲痛なまでに澄んだ文章は、はたちの頃のわたしを熱心に読書へと向かわせました。それで事足りず、一時期は熱情をもって物を書いていましたっけ。
シンポジウムのために久しぶりに再読しましたが、やはりこのひとの作品は、ぞっとするほど明晰な小宇宙を肯定しています。
今ちょうど読んでいる本に、酸性人間とアルカリ性人間に分類する面白いくだりがありましたのですが(ちくま文庫『桂枝雀のらくご案内』)、尾崎翠文学は酸性でもアルカリ性でも絶対に傾いてないよなあなどと、一人うなずいていました。
パネルディスカッションでも話題に上っていましたが、一助、二助、三五郎、当八、九作・・・など数字を含む名前から分かるとおり人物像はもとより物語の筋すら消されているかのように読み手の頭には残りません。大勢の登場人物がさながら一人であるように、です。一方で、蘚(こけ)の恋愛など人間でないものこそ強調されているような感じを受けます。
要するに、人間中心主義ではないのです。その辺りの「おしの強くなさ」の証拠とでもいうのか、人の後ろに隠れた翠の写真を高原英理さんが紹介してくださいました。
また、鳥取と東京を彷徨していた翠がついに文学界を去って鳥取で生涯を過ごしその後は光を浴びることを一切拒んだ事実については、ちょうど長い戦争にさしかかる頃で自分という作家が戦争の広報に利用されるのを避けたためという考えを、池内さんが話されていたことも印象的でした。たしかに同時代の作家らは、戦地ルポなどを書かされていますもの。
ですから、翠をして悲運、孤独などと論ずるのは、ちと早とちりですよね。
ある意味で尾崎翠は長く忘れられた存在であったおかげで、いじられることも汚されることもなく、今によみがえることができたわけで、それは幸運といえます。

*池内紀さんをはじめ安野光雅さん、井上ひさしさん、鶴見俊輔さん、森毅さんが編集なさった「ちくま日本文学全集」の尾崎翠の巻。池内さんがぜひとも尾崎翠を入れたかったのだとか。
しかし翠作品は21世紀の現在でもいたって斬新。
こんなもんが映画化できんのかいな、とも思いましたが、『こほろぎ嬢』はおかしかった! この映画制作を支援した鳥取県が素晴らしいです。

*駒場公園の東口。同じ駒場公園内にある日本民藝館もずっと行ってみたいところ。また今度。